夏草や

社会学的に必然性のあることなんだろうけど、飛田と釜ヶ崎の間というロケーションがまたそそる。いわゆるハッテンバとして日本で最古といわれる、T旅館の跡地を初めて訪ねたのは2016年頃だったかな。大物芸能人が来たことがあるだの、全盛期には一晩に何百人が集まって床が落ちただの、伝説には事欠かないその「旅館」は、昭和から平成初期にかけてのお仲間にとって、何かとオープンになった今とは段違いに解放区めいた場所だったんだろうと想像がつく。ドアに張られた濃い紫色のガラスに顔を近づければ中が見えそうで、内部は当然ぼろぼろに朽ちていたはずだが、大阪中いや日本中から来た男たちが肌を重ねた歴史が確かにここにあるということに圧倒される。古い記事の写真か証言の影響だろう、狭い階段の上にある畳敷きの大部屋に足を踏み入れた偽の記憶さえ育ててしまった。

梅田のH、新世界のRといったサウナ型の施設に客が移ったのが原因なのか結果なのか、とにかくその家は世紀のかわり目あたりに商売を畳んだらしい。間に合わなかったことが悔しい。一度でいいから中を覗いてみたかった。俺は00年代の初めにはHに出入りしていたから、そこまで世代が外れていたわけでもないのだけど。

界隈に投宿すれば必ず、くすんだ色合いの商店街を右に曲がって様子を確かめずにはいられなかった。決して日の当たる場所には出せない欲情の残り香にどうしようもなく惹かれたからだと思う。俺だってキレイな身体でもなし。

訪れるたび、少しずつ外装が剥がれ、廃墟らしくなっていく。そして数年前、新しいアパートに姿を変えているのを見つけて目を疑った。いや、最近まで残っていたことの方が奇跡かもしれない。あの建物は、ほの暗い愉しみの痕跡を安普請に隠して、無人のまま20年は放置されていたことになる。兵どもが夢の跡だ。

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