やさしさも甘いキスもあとから全部ついてくる

津原泰水「夢分けの船」を読了。「読み終わりたくない」と思えた読書は何時ぶりだろう?最終頁の一文に鳥肌が立った。「問題は此若者達は共に、道理の裂け目が発する赫(かがや)きの目撃者であり、その記憶の薄れに抗する術もなく老いていく自分に、どうにも想像が及ばずにいる事だった」ーー著者の遺作であることを考え合わせると、何とも言えない重みを感じる。

昨夜は、侯孝賢『ミレニアム・マンボ』を観た。「映画がつまらなかったら途中で退席できることが投資の適性だ」という話がある。曲がりなりにも映画で飯を食わせてもらっている身として、いやそれ以前に一観客としても到底首肯しかねる考えだ。芸術への向き合いじゃなく、あくまで投資適性の話だが、それにしたってこれが成立するためには、損切りで得られた残りの上映時間で生産的な行動ができなきゃいけない。まあできねえって。

ともあれ座ってスクリーンを眺めているのが苦痛な時があるのも事実だ。Not my cup of teaってやつ。女が煙草をくわえて火を点ける、その動作が画になるのは分かるけれど、こう何度も何度も繰り返されると心の底から飽きてしまう。だいたい、侯孝賢の作品を楽しめたことがない(自分にそのセンスがない)のになぜ金曜夜のミニシアターに足を運んでしまったかというと理由は二つあって、ひとつはポスター。王家衛が若者の一般教養だった90年代に育った人間は、男女がアンニュイな感じで夜っぽい照明の中にいる原色ベースのポスターを見ると自動的にこれはクールな映画だと判断するよう調教されている。もう一つは(退屈しながら画面を眺めていて急に思い出した)大学の講義でもう名前も顔も専門分野も忘れた教授がその監督の作品をえらく高評価するのを聞いて、観てみなきゃ、と思ったからだ。調べたら1995年『好男好女』のはずだ。ちなみに今日に至るまで観てはいない。20歳前後に触れたものの刷り込みはすごいという話。