これは俺の話だと

見ている時は感じたのだけど、やっぱり納得がいかない。今でもクローゼットに眠る高校のチームTシャツを見るとノリユキを思い出す。俺の初恋。いや、それともピアノが弾けた小学校の同級生ゴトウ君かな。

映画「怪物」に抱いた違和感をこの人たちがかなり正確に言語化してくれていて、よかった。

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張江氏が言っている、今マイノリティをフィクションに出すならば最低ラインとして幸せにしてやらなきゃいけない、というのは(今こうして文字にしてみるとやや語弊があるが)当事者として心強く感じたし、カシマ氏の、あの子たちはある程度成長するまで何の問題もなく仲の良い友だちでいられたはずで、それを阻んでいるのは脚本の圧力だという意味の批判もその通りだと思う。

そう、これは人によるので一概に否定するわけにも行かないけれど、同性に惹かれる自分に気づいたからって、そんなすぐ絶望するかな。少なくとも自分はしなかった。劇中で少年は、安藤サクラ演じる母親が期待する、いわゆる「普通の」生き方はできないと自覚して逃避行を図る。でもね。男の子に恋心を抱いた、そのことの社会的な意味の理解には一定の世間知を要するし、それは結構成熟しないと得られないものだと思うんだけどな。

自分の欲望が世界に受け入れられないかもしれないという不安。その暗がりから抜ける道が誰にだって必要なのと同じく、そこに至る過程も人生の一部なはずだ。前者を描かないこともどうかと思うけど、後者のショートカットのほうには、脚本都合の歪さを感じた。

何らかの条件付きでなければ手に入れられないものは幸せではないという決め台詞も、良いとは思えなかった。因果というか主述というか、論理が逆転している。皆に幸せになる権利があるという真実を、いくらそう言うだけじゃつまらないからって、ひねった表現にしちゃいけない。意味が変わってしまう。

条件を満たさぬ者に幸せになる資格はないと、現実はいつも僕らを枠に収めようとする。そういう世界に対して異議申し立てをするような顔をして実は何もしていない台詞。自分にはむしろ残酷に聞こえたけどな…

にしても、特にクイア目線を売りにしていない語り手が先述のような批判を口にする時代になったことは、本当に嬉しい。そんなことを考えていたらY2Kラジオの人たちが、俗にいう「ゲイの親友」問題を批判するのも聞いて、セレンディピティ!と思った。

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